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手当たり次第の読書日記

新旧は全くお構いなく、読んだ本・好きな本について書いていきます。ジャンルはミステリに相当偏りつつ、児童文学やマンガ、司馬遼太郎なども混ざるでしょう。
新選組と北海道日本ハムファイターズとコンサドーレ札幌のファンブログでは断じてありません(笑)。

ドクター・クイン/大西部の女医物語 シーズン1 DVD-BOX/ジェーン・シーモア,ジョー・ランドー,チャド・アレン
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もう随分前にNHKで放送していたドラマです。といっても、実は私は1回しか観たことがありません。

母がたまたま観て、入り込めなかったと言っていたんですね。開拓時代のアメリカ西部が、こんなにも人権感覚に富んだ町であり時代であった筈がないだろう、と。それを聞いて、ははあなるほど、日本のテレビ時代劇が現実の江戸時代とはかけ離れたものであるのとどうやら似たようなことかと想像し、そのまま観ることなく過ぎました。

ただ、1回だけ何かの弾みで、つけっ放しのテレビでこのドラマが始まったのを、そのまま観ていたことがあります。

町の保安官事務所の留置場に、死刑執行を待つ男が1人。そのための正規の役人が到着し次第、彼は絞首刑に処せられることになっています。

ところが町の男達は、それまでの数日間がとても待てない。死刑囚を引き渡せ、俺達の手で縛り首にしてやると息巻いて──。

「リンチ」が当たり前だった時代です。

どうせ死ぬことになっている男なのだ。誰の手がそれを行おうと構わない?

否。

裁判で刑を言い渡され、正規の手続きに則って処刑されること。怒りに我を忘れた群衆からリンチにあい、死体を晒しものにされること。

これらは天と地ほどにも違うこと。そして、そこが「社会」であるのなら、後者は決してあってはならない筈のこと。

その原則を、静かに、しかし揺るぎなく描いた物語になっていました。


今突然このドラマを思い出したのは、最近ずっと世の中の注目を集めている「大津市いじめ自殺問題」に関してです。

いじめの加害者であるとされる中学生達の、写真や名前や住所がネット上に流出しているというんですね。

ああまた「叩ける存在」を見出した人達が面白がってやっているのか、と思ったら、どうもそればかりではないらしい。義憤に駆られて、それが正義だと心底信じて、やっている人もいるらしい。悪辣卑劣な奴どもに罰を加えなければならない!と。

そして、この行為を憂える人の声の中にも、こんなものがあるのです。もしも人違いだったらどうする、と。

人違いじゃないのなら構わないが、という訳なんですよ。

本当にそれがいじめの加害者達の写真であり名前であるのならば、いくら世間に晒してもいい。けれども万が一人違いだったら、無関係な人に迷惑をかけてしまうじゃないか、と……。


これは。

リンチの肯定だ。

としか、私には思えません。


日本は、法治国家の筈ですよね……?

ひみつの塔の冒険 (ミス・ビアンカシリーズ (3))/マージェリー・シャープ
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テニスのウィンブルドン選手権のニュースを観ていたら、笑えてきてしまって困りました。

と言うと何事かと思われるでしょうが、いえ、別に試合中に何かひょうきんなことが起こっていたとかでは全然ないのです。

全くもってわたくしめの個人的な問題。「ウィンブルドン」と聞くと反射的に、この作品を思い出してしまうので。

ネズミの国際団体「囚人友の会」。獄中の囚人達の慰めとなるという古来よりの務めのみならず、そこから1歩踏み出して不当に囚われている人を実際に救い出すこともある彼等は、この物語の前巻『ダイヤの館の冒険』でも、冷酷無慈悲な大公妃が小間使いとして召し使っていた、というか虐待していた少女の救出に成功しました。怒り狂った大公妃は執事にこの一件の責任を負わせ、狭い塔の一室に閉じ込めるという罰を与えます。囚人友の会婦人議長を退いたばかりの美しい白ネズミの貴婦人ミス・ビアンカ、このシリーズのヒロインですが、彼女がその事実を知りました。

かつてはその主人に負けず劣らずの冷酷な男であった執事が、しかし今ではすっかり悔い改めていることを知ったミス・ビアンカ。囚人友の会の反対を押し切って、自分1匹だけででも彼を助け出し更生の機会を与えようと決心するんですね。人生をやり直せるものなら孤児院の庭師になりたいという彼の望みを聞き、町の孤児院の様子を見に出かけます。そこには年寄りのモグラが住み着いていて、彼女を庭に案内してくれました。


 「まあ、テニスコートも、おありなのね!」と、ミス・ビアンカは声をはずませました。「ほんとに、すてきな場所にありますわ。ここの子どもたちにとって、大きな喜びでしょうねえ!──でも、もう少しローラーをかけたほうが、よろしいのではないかしら?」

 ここでミス・ビアンカは、たいへんきわどいことをいってしまったのです。というのも、モグラの種族は、ゆうめいなウィンブルドンの中央テニスコートでさえ、幾つかのモグラ塚をもりあげたほうが、より美しくなると考えているのですから。でも、この年よりモグラは、孤児院に長いこと住みついていたので、孤児の立場から、ものをみるようになっていたことが幸いでした。


初めて読んだ子供の頃には、ここが「笑うところ」だとは勿論すぐ判りはしたものの、ゆうめいなウィンブルドンの中央テニスコートの具体的な知識もイメージも持っていた訳ではありません。いうなれば、頭で判った気になっていた面白さ、でした。

ウィンブルドンのセンターコートにモグラ塚、という図のバカバカしさをはっきりイメージできたのはそれからウン十年後のことです。これはまたつらっとしてとんでもないギャグをかましたもんだなあ、これだからイギリスの作者は、とひとしきりニヤつき……そして、ちょいと困ったことになりました。

以来ずっと、毎年「ウィンブルドン」と聞くと、条件反射的にこれを思い出して、その度に笑ってしまうんです。

以前に朝日新聞夕刊に連載されていた作品なのですが、まだ単行本化されていないんですね。残念だなあ。
この小説の中に出てくるある奇妙な一派のことを、ふとしたことから思い出しました。

彼等は、世界に存在する幸福の量は一定である、と考えています。ですから誰かが新たに幸せになったならば、その幸せは無から有が生じたものではなく、どこか別の場所から移動してきたに過ぎない。つまりその誰かが幸せになった分、別の人が不幸になっているのだ、というのですね。

ということはどうなるか。自分が幸せになるためには、既に他人が手にしている幸せをそのままにしておいてはいけなくなります。自分以外の他人が幸せになればなるほど、自分に回ってくる分の幸せは少なくなってしまうのですから。幸せになりたいと望むなら、他人を不幸にしなければならない──。

かくして彼等は、日々、見境なくとにかく全ての人を標的に、せこくいじましい悪戯や嫌がらせの限りを尽くしているのですが……。

連載中にこのくだりを読んだ時は、何も考えずに大笑いして読んでいただけでした。現実の京都とは似ているようでどこか違う、森見ワールドの京都。その中でじたばたと日を送っているバカでアホな青年達の、彼等もまた一部に過ぎない。そう思っただけだったからです。

けれども。

この頃になって時々、こういう人ってほんとにいるなあ、と感じることが増えてきました。

自分が不幸なのは他人が幸せだからだ、と思い込むような人。

自分に対して何の危害も加えてくる訳ではない、全く接触のない赤の他人。その他人を、「自分はこんなに不幸なのに、向こうはそうではないから」という理由で憎む人。

幸せな人が不幸になるのを「いい気味だ」と思うような人は、本当に幸せになることなど決してできないのに。

いしいひさいち 仁義なきお笑い (文藝別冊/KAWADE夢ムック)/著者不明
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好きな作者であっても、この手の雑誌の特集号を必ず買う訳ではありません。

代表作のあらすじ紹介を集めただけのような安直なつくりの雑誌も決して珍しくはなく、そんなものをわざわざお金を出して買わなくても、と思ってしまうんですよね。

しかし!

これは「買い」ですよ全国のいしいひさいち読者の皆様!!

単行本未収録作品が2つもあって、本人書き下ろしの「でっちあげインタビュー」もあって、そして豪華な特別寄稿の数々。いがらしみきおによる「バイトくん」なんてもう最高ですよ(笑)。

ミヤベくん、じゃなかった宮部みゆきさんの特別寄稿を読んでいたら、耳寄りなことが書いてありました。宮部さんセレクトによる文春文庫の『松本清張傑作短編コレクション』にはいしいイラストがついているというんです。しかもそのイラストがどんなものかというと。


 そちらでは、私は清張さんの助手になって、鞄持ちをしたり、執筆中のところにコーヒーを運んだり、何かでお怒りの清張さんが窓から原稿を捨てようとしているのを、あわてて止めたりしています。


これは見たい!

いしいワールドにおける宮部さんキャラって、ミヤベくんだけじゃないんですよね。これはどうやら小説雑誌の編集者しおりさんのほうに近い設定でしょう。

しおりさんと松本清張。いしいワールドの住人となった清張御大。

『松本清張傑作短編コレクション』全3冊、これはどうでも買わない訳にはいかなくなってきました(笑)。

レイ・ブラッドベリが亡くなったというニュースを知ったあと、しばらく途方にくれていました。

好きな作品が多過ぎる上に、これまでにも何度もこのブログで書いてもいる作家です。

訃報を受けて改めて……という時に、私が選ぶべき1冊とは一体どれなのか。ちっとも決められなかったのでした。

うんうん唸った末にふと頭に浮かんだのが、「SFと幻想の詩人」というパブリックイメージからはちょっと離れた作品です。私が最初に読んだのも、(今はなき)ミステリ雑誌「EQ」ででした。

という訳で、ブラッドベリ「EQ」初登場作品、1995年1月号掲載の「心優しい殺人」です。この作品は「優雅な殺人者」という邦題で伊藤典夫氏の訳もあるのですが、個人的好みで池央耿氏の訳のほうを。

若い日に出会った頃は、確かに愛し合って結婚した筈のジョシュアとミッシー。友人達も皆、2人を正真正銘のおしどり夫婦だと信じて疑わないのですが、しかし何十年もが経って老夫婦となった2人は、いつからそうなったのか最早思い出せないほど、お互いに心の底から相手を憎むようになっていました。

妻を殺そうと決意したジョシュアは、ミッシーのほうでも自分を殺そうとしていると知り、彼女にこんな提案をするんです。「私がお前を殺すにせよ、お前が私を殺すにせよ、それはどちらでも構わないわけなんだが、とにかく、お互いに守り合うようにしようじゃあないか」「お互い、相手を亡き者にしようとさんざん骨を負った挙句の果てが、絞首刑か電気椅子じゃあ、どうして苦労のし甲斐があるものかね」……ミッシーもこれに同意し、かくして2人はお互いの間では堂々と、しかし周囲に対してはこっそりと、事故死に見せかけて連れ合いを殺そうというゲームに熱中し始めるのですが……。

と言うと、何とも凄まじい設定に聞こえるでしょう? ところがこれが、実に上品かつユーモラスな洒落たお話に仕上がっているんですよ。

ラストはお見事!の一言に尽きます。

平台がおまちかね (創元推理文庫)/大崎 梢
¥735
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思わずニヤッとしてしまうタイトル、というものがあります。
もうかなり前に書店で見かけただけの未読本なのですが、ずっと忘れられずにいるのが『なぜ絵版師に頼まなかったのか』(北森鴻)。見るなり危うく店内で爆笑するところでした。というのはアガサ・クリスティーに『なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか?』という作品があるんです!(爆)

私が見かけた時には単行本だったのですが(多分それが買わなかった理由)、その後文庫化されたようなので、ぜひ読もうと思っております北森作品。先行作品を元ネタにしたタイトルをつけるということは、即ち「元ネタを知っている人にアピールする」意味があるんですよね。つまりこの場合は、ミステリですよ!ということ。

北村薫『盤上の敵』もそうですね。北村さんが愛してやまないエラリー・クイーンの『盤面の敵』からとっていることは明白。北村さんのこの長編は、非常につらい、痛々しい、悲しい要素満載の物語なのですが、しかし作品の主眼はそこにあるのではなく、あくまでもチェス盤の上の白と黒の駒の攻防にも似た戦いの図式そのもの、そういう本格ミステリなのだ、と予め読者に告げるタイトルでした。

で、この『平台がおまちかね』。主人公・井辻君の職業は出版社の営業マン。担当する書店を回っては自社の本を売り込むのが仕事です。表題作のストーリーは、ある書店でだけ特に売れている既刊本をめぐってのもの。なぜかその書店ではその本だけを、特設コーナー用の平台に積んでいた──という、このシリーズこの作品の設定と内容だけには、実はとどまらないタイトルなんですよね。

そう、これにもやっぱり元ネタがある。ピーター・ラヴゼイの『マダム・タッソーがおまちかね』です。

書店で本の現物を見れば、単行本は「創元クライム・クラブ」、文庫本は「創元推理文庫」。それだけで一目瞭然です。でもどこかでタイトルだけ聞いたのでも、これならすぐに「ミステリだ」と判る。

殺人のアリバイ崩しや密室トリックを暴くようなことは何も起こらない「日常の謎」派です。けれども紛れもなく「これはミステリですよ」と、初めからミステリ好きに向けて書かれた作品なんですね。


ところで。

作者は大崎梢、主人公は書店回りの出版社営業マン、とくればどうしても、同じ作者の「成風堂書店」シリーズを思い浮かべてしまう訳で。

井辻君の担当の中に成風堂は入ってないのかなあ、杏子さん多絵ちゃんとの共演がぜひ見てみたいけれどと思いながら読んでいたら。

名前だけでしたが、やっぱり出てきました成風堂!

ハートの刺青 (ハヤカワ・ミステリ文庫 13-4)/エド・マクベイン
¥588
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「公務員は入れ墨まかりならぬ!」との持論を実行に移すべく、わざわざ調査まで実行した橋本徹大阪市長。調査の結果は何と110人もの市職員が入れ墨をしていたのでした……! と言われると、何だか物凄く蔓延しているような印象を受けたりする報道のされ方な訳ですが。

調査対象となった市職員の総数、およそ34,000人です。

34,000人のうちの110人。0.33%にも届きません。

しかも入れ墨ったって、何も倶利伽羅紋紋の総身彫りが110人いた訳でもあるまいし、「入れ墨というものそれ自体」を「公務員にはふさわしくない」と頭ごなしに決め付けなくったって、と正直思います。よそさまの自治体のことだからどうでもいいっちゃいいんですが、ほんとに他に喫緊の課題はないんかい、というかね。

「彫り物をしている」=「ヤクザ、堅気じゃない」というイメージが長年かけて日本社会では一般的になっていて、しかし同時に現在では必ずしもそのイメージを共有していない人も増えてきた。だからこそ起こっている問題ではあります。

あまりにも「入れ墨それ自体」を敵視しているふうなので、レディー・ガガだってジョニー・デップだって入れてますけど、と問われた橋下氏。芸能人と公務員は別!とにべもなかったようなのですが。

ところ変われば品変わる。世界中のどこへ行っても「公務員なら駄目」という訳でもないのでは、という気にさせる小説がこれです。

警察小説の古典「87分署シリーズ」の1編である本作は、誘惑した女性を次々殺していく不気味な連続殺人犯と刑事達の攻防を描いているのですが、この犯人、さながら画家が作品にサインを入れでもするように(汗)、殺す前に必ず女性達の手にハートの彫り物を入れさせているんですね。

で、刑事達は市内の彫り物師を訪ねて、怪しい客が来なかったかと聞いて回ることになるのですが。

主人公格の刑事の1人、スティーブ・キャレラの妻テディ。夫の捜査の副産物というべきか、彫り物師と知り合うことになった彼女、肩に「黒いレースの蝶」の彫り物を入れたくなるんですね。色白の美人である彼女。肩紐のないドレスを着た時に、白い肩に止まった小さな蝶はさぞかし映えるだろうというのがその理由です。ごく普通のお洒落、ファッションとしての感覚で、大仰なところは何もないんですよ。

事件を解決して家に帰ってきたキャレラは、うたたねしている妻を揺り起こそうとして、その肩に美しい蝶が彫られていることに気づきます。彼のキスでぱっちりと目を開けたテディは、実は寝たふりをしていたのでした──というのがラストシーン。

のちの作品で、テディはもう片方の肩にも蝶を彫ることになるのですが、その理由が「夫へのプレゼントとして」。市警の生真面目な刑事が、妻の彫り物を「彼女をより美しくし魅力的にすること」と捉えている。そんな、何十年も前のアメリカの小説です。

探偵Xからの挑戦状! 3 (小学館文庫)/北村 薫
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NHKで時々やってる視聴者参加型犯人当てミステリドラマ「探偵Xからの挑戦状!」シリーズ、書籍化もされていたんですね。

知りませんでしたが、確かにこれは放送しっ放しじゃ勿体無い。出題者は当代一流のミステリ作家ばかりな訳ですから。言ってみれば「ドラマのノベライズ」に当たるのでしょうが、所謂普通のノベライズ作品とはひと味もふた味も違っています。

という訳で、前にこのブログでも話題にした北村薫「ビスケット」収録の第3巻を、まず買って参りました。

その時にも書きましたが、かの名作「冬のオペラ」シリーズの世界にまた触れることができるというだけで、ドラマ放送時にはもう感謝感激雨あられ状態だったんですよね。あれから1年、まさか更にこんな出会いが待っていようとは、本当に望外の喜びでした。

北村さん自身の筆で、あの「お題」が小説化される。だとしたらそれはつまり、自作パロディでもファンサービス企画でも何でもない、正真正銘、堂々の、「冬のオペラ」シリーズのエピローグ。

そう期待して読み始め、そして、期待以上でした。

犯人当てドラマでは必要のなかった部分、「この18年間の姫宮あゆみと巫弓彦の身の上」が簡潔に、しかししっかりと描かれています。

前回のブログでネタ割りをしてしまっているので(汗)今回もご容赦を願いますが、妻を誘惑した男を殺した犯人の告白も、ドラマよりも更に深みを増した「北村薫の世界」のものになっていました。


……わたしは、わたしは……、もしあの男が本気で妻を好いていてくれるなら、それでもいい……とさえ思ったのです。わたしには決して与えられないものを、あの男が与えてくれたのなら。


思いが真剣なものなら許す、と言った言葉を、しかしその男は笑いました。彼にとっては全くただの浮気沙汰でしかなかった。冷静というより臆病な男、感情的になったことなど今までになく、そんな自分を自分で憐れんでさえいた男が、初めて感情を爆発させたのはその時でした。妻を侮辱した男を殴り殺し、凶器についた指紋を拭い取って、彼はその場を離れました。犯行を隠そうとしたのは、自分自身の保身のためなどではありませんでした。


……何のために奴が殺されたのか、妻に知らせたくなかったのです。


ドラマを観た時に思ったのと同じことを、小説を読んでやはり思いました。

こんな告白を受け止める役割をするのは、巫弓彦と姫宮あゆみ以外の誰であってもいけなかったのだ、と。



思わず、「えっ」と声を上げそうになってしまいました。


スタッフブログ「マイページリニューアルのお知らせ」


リニューアル後のほうがむしろ見にくくなっていると不評の声も多いようですけれども(私見ですが、ツイッターの真似をしてみて見事に撃沈したという感がありありです)、そんなことはむしろ些細なこと。

「また、このリニューアルに併せてブログの管理にも変更があります」と、いかにも付け足しのように記されていることのほうが、むしろ重大事だと思うのです。その3番目が。


3、ブログのトラックバック機能が終了となります。

いや、これはないでしょう……!

なるほど、自分のブログを考えてみても、トラックバックをすることは実はそれほど多くはありません。ブログ利用者の数に比してこの機能の利用は少ない、だったら使われない機能はなくしてしまったほうが運営上スムーズじゃないか、という発想になるのは判らないでもないことです。

ただ、その「あまり使われない機能」が何なのか、が大事なこと。

トラックバックとはブログというものの、大袈裟にいえば根幹にかかわる機能ではないでしょうか? 「トラックバックをあまりしない」と「トラックバックができない」とでは大違いですよ。

ブログデザインすら殆ど変えずに何年も使ってきたことでもあり、生来のものぐさ人間としては、完全にアメーバを見限ってよそに引っ越そうとまでは思っていません。でも、普通にトラックバックのできる他のブログサービスのどこかでミラーブログを始めようかなと考え始めています。

ウは宇宙船のウ (小学館文庫)/萩尾 望都
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今朝起きて新聞を開いたら、萩尾望都さんが紫綬褒章受賞というニュースが飛び込んできました。

スポーツ新聞も芸能面はすっ飛ばすし女性週刊誌も殆ど読まないし、という訳で著名人の年齢というものにあまり詳しくありません。しかしこういう受賞・表彰関係のニュースになると一般紙にも、名前の次にカッコに入れて年齢、という形で記事が出る訳で。

「萩尾望都さん(62)」と書かれた記事を見て、「今62歳でいらっしゃるということは、『トーマの心臓』や『ポーの一族』の頃って……」と逆算を試み、思わずひっくり返りそうになりました。

若いッ!!

こんな若い頃から名作・傑作を次々と発表し続け、しかも、それが何十年も止まらない、というのが凄過ぎます。とりのなん子さんがデビュー前、短編「A-A'」を読んで受けた衝撃のあまり暫くペンが持てなくなったそうですが、何か判る気がするなあ。

個人的に思い入れの深い萩尾作品が、実はオリジナルではないこれだったりします。原作レイ・ブラッドベリ。

確かこのマンガを読んだ時には私は既に『ハロウィーンがやってきた』や『たんぽぽのお酒』を読んでいたと思うのですが、この『ウは宇宙船のウ』は未読でした。ただ、創元推理文庫の巻末などで、「ブラッドベリにそういうタイトルの短編集がある」ということだけは知っていたんですよね。

まず最初にマンガ化作品のほうを読んで「面白い!」と興奮・感動し、あとになってから原作小説を読んで、やっぱり興奮・感動しました。どちらがどちらの興を削ぐこともなく、萩尾望都凄い!ブラッドベリ天才!と盛り上がれたんですよ。

これが描かれたのはもう30年以上も前。それから今まで、何人も何十人もの個性的な作者をマンガ界は絶えず生み出し続けています。でも、ブラッドベリの世界を過不足なくマンガにできる作家といえば、あとにも先にも萩尾望都ただ一人だけなんじゃないだろうかと、ずっと勝手に思い続けています。