『冷血』 高村薫 | 手当たり次第の読書日記

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新旧は全くお構いなく、読んだ本・好きな本について書いていきます。ジャンルはミステリに相当偏りつつ、児童文学やマンガ、司馬遼太郎なども混ざるでしょう。
新選組と北海道日本ハムファイターズとコンサドーレ札幌のファンブログでは断じてありません(笑)。

冷血(上)/高村 薫
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今更何をという感じですが(汗)、あけましておめでとうございます。

こんな有様のブログですが、お気が向かれましたら本年も引き続きよろしくお願いいたします(ぺこり)。

……という今年最初のブログ更新がこの本か、と自分でもちょーっと思わないでもないんですけれども。

未読の方も画像を見て頂ければお判りになりますが、上下巻です。しかもそのそれぞれが充分に厚い! しかもしかも中を開けば2段組み!! つまりもっの凄く長い小説だということです。しかもしかもしかもその長い小説の作者は高村薫!!!

いやもう、読み応え、なんてな生易しいもんじゃないです、はい。


2002年12月の夜半、東京は世田谷の裕福な医師の家族4人が強盗に惨殺された。やがて逮捕された2人の容疑者。彼等は最初から犯行を認めており、物証も山のようにある。しかし、合田警部をはじめ捜査に当たる刑事達は、取り調べを進めれば進めるほど、むしろこの事件が判らなくなっていく──。


というのがこの小説の発端、なのではありません。

全部、です。

いや、ほんとにそうなんですよ。最初から最後まで、「この事件は一体何なんだ?」という執拗なまでの問いかけに終始している小説です。

物証もあれば自白もある。けれどもその自白が、たとえば犯行の具体的な手順等について詳細であればあるほど、「では何故そうした?」ということがどんどん曖昧になっていく。犯人達に、言い逃れようなどという意図はありません。ただ、彼等自身にも本当にどうしても判らない。押し入る先が特にその家でならなかった理由も、寝入っていた子供達までをもわざわざ殺さなければならなかった理由も。その行為に及んだ瞬間が過ぎ去ってしまったあとでは、全てが最早不明なのです。

執拗な問いかけの、答えが明瞭な形で得られることなど多分ないと、刑事達も承知していながら、それでも尚も問い続け、犯人達のこれまでの人生のどこかに答えの鍵が潜んではいないかと、いつ終わるともしれない捜査が続いていきます。

そんな答えなど本当に必要なのかと、もしかしたら訝る読者もいるのではと思うほど。金が欲しいから適当に押し入った、で何故いけない。家人に見つかったから何も考えずに殺した、では何故いけないのか? 物証も自白もあり、裁判になっても争う余地など何もない筈。

こんな残虐な犯行に手を染める最低の奴等が心の奥底で本当には何を考え感じていたかなんて、そんなもんどうだっていいことじゃないのか……!?

という作品では、これは、全然ないんですよね。

書き下ろし作品ではなく初出は週刊誌への連載だったということですが、連載当時の読者は、さぞかしもどかしくいらいらする思いで読み進めていたのではないかと想像します。今回こそ何か大きな進展がみられるのではと思っても、いつまで経っても全てはじれったいほどに少しずつしか進んではいかない。結局また何も判らないままだったではないかと地団太を踏みながらの更なる1週間。

ふっと、『模倣犯』(宮部みゆき)を連想しました。といってもこの2作品が似ているというのではありません。初出が週刊誌連載の大長編という点は共通していますが、作品そのものは実に対照的です。

敢えて言ってしまうと『模倣犯』には、作者が意図的にそう書いたのかどうかは判らないのですが「俗情との結託」(Ⓒ大西巨人)めいたものをそこはかとなく感じるのです。もっと普通の言い方をすれば、「読者に対して親切である」ということになるでしょうか。

週刊誌の連載という細切れの形で読むことになる、この作品の最初の読者に対して、「続きは1週間後か……あーあ、ちっとも進まないな」などとは間違っても感じさせない、「早く続きが読みたい!」と思わせないではおかない書きっぷりです。

でも高村薫には、そういう種類の親切さはあまり見当たらない。

小説の冒頭、やがて起こる殺人事件の加害者となる男達と被害者となる医師一家の長女、その2人と1人の視点が交互に語られます。自分達家族を待ち受ける運命を知るよしもない中学生の少女の、青春のとば口に今まさに立とうとしている心の動きが何と繊細に描写されていることか。この瑞々しい命が無残に奪われたことへの怒りを、読者の胸にかき立てずにはおかない構成──とは、実は単純に言い切ってしまうことが私にはできません。

というのは、これでもかとばかりの克明さと詳細さで描かれる、加害者2人と被害者一家の生活は、どちらもあまりにも「極端」なものだからです。

携帯サイトの掲示板で見つけた仕事の口が明らかに犯罪であるらしいと判っても、別段何とも思わずにそのまま受け入れようとする男と、その募集の書き込みをした男。まるで行き当たりばったりの彼等の有様は、読者の殆どにとって自分の生活圏内には考えられもしないものでしょう。

しかしその彼等の対極に位置する被害者一家もまた、やはり読者の大半とは遠い存在なのではないでしょうか? 絵に描いたようなエリート医師の両親。大学付属の中学校に通う長女は、単に勉強ができるというだけにとどまらない、知的な早熟さの片鱗を覗かせています。

この事件の当事者達は、誰ひとりとして「普通の人々」ではないんですよね。読者は彼等の誰にも、簡単に感情移入することができません。

殺人事件を扱った小説で、被害者にも加害者にも感情移入ができなかったらどうなるか。「事件解決によるカタルシス」は、遂に得られないまま終わる、ということです。

『模倣犯』は、いかにも練達の書き手ならではの、小説らしい終わり方をしてくれました。読者が、ああ面白かった、と呟いて本を閉じることができるエンディングです。

でも、この『冷血』は──読み終えて本を閉じたあと、読者はしばし呆然として絶句したままでいるほかはないような、そんな小説でした。